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鳥獣戯画・守株待兎

2022年2月16日水曜日

牛にかかわる故事来歴、役に立つ人生の糧・成語集

牛にかかわる故事来歴、ことわざ、成語

 

牛耳を執る   

 古代中国で諸侯が集まって同盟をする時の一儀式

出典:
史記、左伝

詳しい紹介:
牛の耳を取り裂いて血をすすりあって、神前に誓いを立てる。この時盟主(最も尊いもの)が牛耳を取り、最初に血をすするのが通例である。昔戦国時代呉王夫差が「晋」の定公との間の同盟を結ぼうとした時、この「牛耳を執る」ことに固執し、ついには晋の定公を奇襲で打ち負かし、自らの盟主としての「牛の血」をすすった後、越王勾践との戦いに急ぎ取って返した話は有名。

  
 
 

九牛の一毛

 取るに足らない些細な事

出典:
前漢の第7代皇帝武帝の治世下、後に史記を書き上げるとこtになった司馬遷が、李陵将軍を庇ったことに皇帝の逆鱗に触れ、宮刑に処せられた時、「世人は私が刑せられたことなど、九牛が一毛を失うことぐらいにしか感じないであろう」と嘆いたことからくる。

詳しい紹介:
 紀元前99年李陵将軍は匈奴征伐に向かった。彼は辺境の地で名を馳せた李広の息子である。李陵将軍はわずか5000の兵を率いて強大な敵の主力部隊とぶつかり、奮戦したにもかかわらず、援軍もなく、脱走兵も出るに及んで、匈奴の捕虜となった。皇帝武帝は彼が匈奴の手厚い保護を受けていると知り、激怒し家族も含め厳罰に処しようとした。司馬遷は、「わずかな兵で強力な敵と戦い奮戦したにも関わらず、やむなく降伏したものと考えられる。従って李陵の功を大いに天下に知らしめてください。」と弁護した。それを聞いた武帝は司馬遷を投獄の上宮刑に処してしまう。宮刑とは男根を切断する刑であり司馬遷自身も最下等の恥辱といっている。その時に「彼は世人は私が刑せられたことなど九牛が一毛を失うぐらいにしか考えてないであろう」とも言っている。司馬遷はこのような恥辱を受けながらも、それに耐え、『史記』百三十巻を完成した。紀元前97年のことである。

 
 

蝸牛角上の争い  

つまらない事で争うこと。

出典:『荘子』則陽

詳しい紹介:
 戦国時代は中原の国々が覇権を争い強肉弱食の武力抗争に明け暮れた時代である荘子の則陽篇にあるこの話 荘子が梁の恵王に対し説いた話だといわれている。弱肉強食の武力抗争に明け暮れていた血みどろの戦いをカタツムリの角の上での争い似た愚かしい行為だと戒めている。

荘子は老荘思想を唱える道家のうちの一人で、宇宙の根源的存在としての「道」にのっとった無為自然の行いを重視する思想である。


 

風馬牛  

さかりのついた馬や牛でも遠く離れていては仕方がない

出典:春秋左氏伝:孔子の編纂といわれ、紀元前700年頃から約250年間の魯国の歴史が書かれている。

詳しい紹介:
 周の恵王が紀元前656年、楚を討つこととした。一方楚の方では、使者を立ててその討伐の意図を尋ねた。「君を北海におり当方は南海におり、唯是れ風する馬牛も及ばず。考えも及ばないが、君のわが地に渉らんとするは何の故ぞ。」という問いかけの中に「風馬牛」が使われている。昔の戦争は、ある意味それなりの会話と礼を尽くしていたのかと興味がそそられる。

  
 
 

寧ろ鶏口となるとも牛後と為るなかれ  

小さいものの頭には なっても大きいなものの尻になるとの戒めである。

出典:史記の『蘇秦伝』

詳しい紹介:
  表題の鶏口は「鶏の頭」 牛後は牛の尻のことで 鶏の頭は小さいが尊く、牛の尻は大きいが賤しい。つまり小さいものの頭には なっても大きいなものの尻になるとの戒めである。現代風に言えば、大企業で底辺でいるよりも、中小企業のトップで居るべきであるという「教え」ともとれる。
 この話は 春秋戦国時代に 秦以外の各国を回って 生き残りのために合従(同盟)を説いた蘇秦の話である。合従とは趙、韓、魏、斉、楚などの小国が秦を相手にバラバラで対抗しても勝つことはできない。 蘇秦は、秦に対抗するためには、合従(同盟)するしかないと各国を回って説いて回って、一定成功したかに見えたが 現実には、一年で瓦解している。

この合従説を説いた蘇秦以外に連衡説を説いた張儀が縦横家として諸子百家に数えられている。
因みにこの縦横家以外に諸子百家には、名家,墨家,法家,儒家,陰陽家,道家,農家,雑家、小説家、兵家などがある。   



 


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